亀井山鹿谷園の今昔
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亀井山鹿谷園は大正4年に浜松城の北側にある亀井山に開業し、昭和初期 に閉園した民間の観光施設です。亀井山の旧テニスコートと「あさくま」 の間及びその南面にある低地です。浜松城公園長期構想にある北部エリア内の 個人民有地の買収と建物撤去が2021年春に完了したため、 今後このエリアの公園整備がスタートするものと思われます。



亀井山鹿谷園の歴的価値

亀井山鹿谷園は、大正時代の浜松市を代表する観光地として、 何枚かの絵葉書を残しています。
野口雨情がここで遊んだ写真も残されています。
ここは、入場料を支払って入る人が居た事になり、大戦景気から大恐慌に至る時代 の暮らしぶりの一端を見るとが出来る貴重な遺物だと思います。



絵葉書1

(浜松名所)鹿谷園全景と書かれています。
現在の子供プールの南西の角辺りから撮られたものと思います。
右側に見える太鼓橋の奥の池は現在の松韻亭の南の池とほぼ同じ位置だと 思います。山の上の建物は撤去前のY氏邸の南ぎりぎりの地に建てられたものか その西の平地に建てられたものか良く解りませんが、これが鹿谷園の メイン建造物だったと思います。



絵葉書2

(浜松名所)鹿谷公園と書かれています。
亀井山の南面には東の谷と西の谷がありました。東の谷は現在の松韻亭南の 池と東屋の辺りで、西の谷は国体のテニスコートとなり、 今は中部学園が使用している所です。
この写真右の太鼓橋の辺りが東の谷の入り口です。



絵葉書3

浜松名所(鹿谷園ビーヤホール)と書かれています
これは、文芸館の敷地より東側で数m低く南北に細長い平地です
この絵葉書に映っている春日灯篭の基礎(菊石)はここに現存します
右側に見える「ビーヤホール」の土間も現存します。
その土間位置の東側の崖には装飾の施された、壁があり、ひょっとすると 後に紹介する「帰雲洞」の東口上部の装飾かもしれません。



絵葉書4

(浜松名所)亀井山鹿谷園雪見灯篭其一と書かれています。
脚の部分は文芸館跡地に現存します。脚の下のコンクリート土台の 写真形状が現在と一致しますので、位置は動いていないと思います。
また、其一と書かれていますので 其二があるはずですが、前項の春日灯篭を指す可能性もあります。



絵葉書5
浜松名所 亀井山鹿谷園帰雲洞西口と書かれています。
これは旧文芸館の東側の崖に作られたものですが、トンネル の上の平地高さは右端までほぼ平坦に見えます。また、右側には 階段が見えるので崖では無いように見えますし、影の出来方から見て、 手前の柵の手前は斜めに低くなっていっるように見えます。
子供の時にここで良く遊んだというM氏によれば、まっすぐ東に向かう と東の出口に出られたそうです。


追加写真1
ビーアホールの絵葉書の場所と思われる場所です。
灯篭の基礎(左手前)やビーアホールの土間らしきもの(右奥)が残っています。
種々の理由で100年前の空間が今でも残っている事に感動してしまいます。


追加写真2
ビーアホールの絵葉書の灯篭の基礎(菊石)と思われるものです


追加写真3
灯篭の基礎の残っていた平地の、東側の崖に残っている、壁面の飾りです。
ビーアホールの位置ですので、それに関係したものか、帰雲洞の東出口に関係 したものでは無いかと想像します。左端の曲線が屋根の形にも見えます。


追加写真4 (ふるさとの思い出写真集神谷昌志編著国書刊行会より)
野口雨情を囲み鹿谷園で記念撮影した写真です
撮影場所が気になりますが、最初の写真の山頂の建物で会食したように思えるので その周辺の何処かだと想像します。